NHK「クラシックTV」レナード・バーンステイン 指揮者・作曲家・ピアニスト・教育者としてマルチに活躍したクラシック界のスーパーヒーロー

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私が初めて買ったクラシックのレコードは、バーンスタイン指揮ニューヨークフィルの「展覧会の絵」でした。高校生の時です。当時、バーンスタインとカラヤンはクラシック界を大いに盛り上げてくれるアイドルでした。

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生い立ち

そんなバーンスタインが「クラシックTV」に取り上げられました。指揮者の広上淳一氏と漫画家のヤマザキマリ氏がゲストで、明るく知的な回となりました。番組の中では、在りし日のバーンスタインが生き生きと活躍していました。今でも私にとってはアイドルですね。彼について掘ってみたくなりました。

バーンスタインは、ウクライナユダヤ人移民の2世として、マサチューセッツ州ローレンスに生まれる。生まれた当初の名前はルイス(後にレナードに改名する)。父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒であった。家族には音楽的な環境は全くなかったが、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったという。理髪店を経営した父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志した。

wikiより引用

街場にポンと生まれた天才だったのですね。全てが遺伝で決まるわけではないというそんな希望を与えてくれます。

高校はボストン・ラテン・スクールという超名門からハーバード大・カーティス音楽院で学びます。この音楽院も入学人数制限があり、入学困難校です。そうとう優秀だったわけです。ちなみにこの音楽院の卒業生はそうそうたるクラシックの名プレイヤーが名をつらねます。ソプラノのモッフォ、ピアノのブロンフマンにランラン、ユジャワン、バイオリンはヒラリー・ハーンと現代のプレイヤーも多いですね。指揮者は、パーボ・ヤルヴィがいますね。

バーンスタインはこの音楽院で、ライナーに指揮を習っています。作曲はピストンに師事してます。バーンスタインはライナーのことを「演奏する曲を完全に知らない限り、オーケストラの前に出てはいけないということを教えてくれた」と崇拝していたようです。ライナーもバーンスタインの天才性に気づき、指導に力を入れ、「A」評価を与えています。

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指揮者としてのバーンスタイン

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、この日のコンサートはラジオでも放送されていたこともあり一大センセーションを巻き起こします。

1958年にアメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨークフィルの音楽監督に就任します。

バーンスタインとニューヨーク・フィルのコンビは大成功を収め、同フィルの黄金時代をもたらした。作り出す音楽の魅力、気さくでおおらかな性格、指揮者としての情熱的な指揮ぶり(興に乗ると指揮台上でジャンプすることもあった)などでファンを魅了し、スター性も備えていた。CBSレコードと録音契約を交わした際には「彼の録音に際しては、録音曲目の決定をほぼ彼に一任する」待遇を受け、当時としては画期的なレパートリーも数多く録音した。

wikiより引用(同上)

バーンスタイン生誕100年のとき、ソニークラシカルから出ている100枚組CDボックスの曲目をさっと見ると、コープランドやアイヴス、バーバー、Wシューマンなどのアメリカ人作曲家やゴルトマルクというユダヤ人作曲家、ニールセンも多いです。この辺が画期的レパートリーでしょうか。それにしてもあらゆる曲を録音した感じで、そのレパートリーの広さに驚きます。

ニューヨークフィル辞任後は、特定のオーケストラに常任することなく、様々なオーケストラに客演します。ただ、ベルリンフィルは振っていません。カラヤンがバーンスタインに「ベルリン・フィルを指揮したいか」と尋ねたところ、バーンスタインは「ベルリン・フィルの音楽家は甘やかされすぎて、最早カラヤンを常任指揮者として望まなくなっている」と語ったそうです。カラヤンをやめさせたオーケストラを振りたくなかったというわけです。

同じユダヤ系作曲家であるグスタフ・マーラーの交響曲の演奏は自ら“自分で書いたような気がしてくる”と言うほどで、ニューヨークフィルらとの1回目の全集の他、晩年にウィーンフィル。コンセルとヘボウ、ニューヨークフィルで2度目の全集も録音しました。

先日後者の全集から第5番のアダジェットから5楽章までを聴きましたが、丁寧な演奏にすばらしさを回確認しました。

1985年8月には広島を訪れ「広島平和コンサート」を開催、ベルリンの壁崩壊にともない、混成オーケストラで第九を演奏、1990年民主化されたチェコスロバキアの「プラハの春音楽祭」でも第九を演奏しています。音楽家として社会的メッセージを発信しました。

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作曲家としてのバーンスタイン

昨年スピルバーグがリメイクした「ウエストサイドストーリー」というミュージカル映画を観ましたが、絵が美しく本当にすばらしかったですね。このミュージカルを作曲したのがバーンスタインです。人口に膾炙したミュージカルですね。作曲家としてのバーンスタインを見てみましょう。

交響曲を3曲作っています。1番には「エレミア」3番には「カディッシュ」という題が付き、ユダヤの信仰に関わる作品です。その他、ミュージカル4作品やバレエ、オペラ、合唱曲、クラリネットソナタなど様々な作品を作曲しました。「波止場」という映画音楽はアカデミー賞にノミネートされています。しかし、「ウエストサイドストーリー」を越えるものは作れず、悩みの種でもあったようです。

私が好きなのは「キャンディード」序曲と「前奏曲、フーガとリフ」ですね。特に後者はジャズが好きな人には気に入ると思います。スリリングでかっこいい曲です。ジャズ特有の粘りけもありますぞ。

教育者としてのバーンスタイン

音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行いました。この番組は「ヤング・ピープルズ・コンサート」と言い、今はいつでもyoutubeで見ることができます。子どもたちを相手に、わかりやすくクラシック音楽を伝えています。顔を輝かせて聴き入る子どもたちの笑顔がすてきです。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾、大植英次、佐渡裕など多くの弟子を世に送り出したことでも知られています。日本人に関わりが深いですね。

日本との関わりと言えば、1990年にバーンスタインが札幌で創設したPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)は大変重要です。

 これまで約30年にわたり、世界77カ国・地域に延べ3,600人以上の優秀な音楽家を輩出し、未来のクラシック音楽シーンを担う人材の育成に貢献してきました。
 PMFの中心は、世界を代表する音楽家を教授陣に迎え、オーディションで選ばれた世界中から集まる若手音楽家を育成する教育プログラム「PMFアカデミー」。毎年夏の約1カ月間、出身も文化も異なる”若き才能”たちは、音楽という共通言語を通じ互いに切磋琢磨し、国際交流を深め、かけがえのない経験を胸に旅立っていきます。特に、アカデミー生により編成される「PMFオーケストラ」は、世界トップレベル・アジア随一のユースオーケストラと評され、そのみずみずしく熱のこもった演奏は、多くの人々に感動を与えています。

ここから引用

バーンスタインは「これからの時間は教育に使う」と述べて、その情熱を札幌でのこの活動に注ぎました。この様子はクラシックTVでも放送されました。バーンスタインの語りが、どれだけ子どもたちによき影響を与えるかは計り知れません。この音楽祭1度は行ってみたいですね。

バーンスタインがPMFを創設したのは、自身がクーセヴィッツキーが作った「タングルウッド音楽祭」で学んだことに起因していると思われます。アメリカのボストンで行われるタングルウッドとともにもうひとつドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭もバーンスタインと関わりがあります。

このドイツの音楽祭でオーケストラアカデミーを創設したのがバーンスタインなのです。1987年がその年ですから、タングルウッド→シュレースヴィヒ=ホルシュタイン→PMF札幌と活動を拡大していったことは、教育に向かうバーンスタインの姿勢を伺わせますね。ちなみにこの3つの音楽祭は世界の三大教育音楽祭といわれています。3カ所とも行ってみたいですね。

しかし、PMF創設のころ既にバーンスタインは病に冒されていたのです。1990年夏のタングルウッド音楽祭におけるボストン交響楽団との演奏(ブリテン:「4つの海の間奏曲」、ベートーヴェン:交響曲第7番)が最後の舞台となり、10月9日に指揮活動からの引退を表明します。それから5日後の10月14日に、肺癌のためニューヨーク市内の自宅で逝去します。満72歳でした。偉大な生涯だったと思います。

samon
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バーンスタインのすばらしさを再確認できました。「クラシックTV」よありがとう。レコード棚をあさると、バーンスタイン・ニューヨークフィルの「ハイドンのメサイヤ」があったので、聴いてみました。初めて聴く演奏です。うちのレコード棚には家内が持ってきたCBSソニーのクラシック全集があるんです。バーンスタインの未聴のレコードも結構あるんですよ。これを機会に少しずつ聴いてみましょうか。

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