市井の人々の、人生のやるせなさや男女の陰翳が緻密で端正な文体で綴られる魅惑の短編集です。最初の1話は、隠密の話だったなあ。とにかく1話1話が引きこまれるおもしろさで、一気に読んだりせず、1話ずつ大事に読んでいきました。いやあ藤沢周平はほんと素晴らしいです。大オススメの逸品。
亭主の仲間
この文庫本には11話の短編が掲載されています。これまで藤沢周平の短編はだいぶ読んできましたが、今回初めてであったのがサイコパスの登場するホラーです。これにはびっくり。もちろん彼の筆致ですから、端正な文体ですがそれででも、いやそれゆえに?十分怖かったです。題名は「亭主の仲間」。
日雇い仕事をしている亭主の辰蔵が、ある日上機嫌で帰ってきます。「いい仕事仲間ができた」というのです。「なにしろ気持ちのいい男でよ」「そのうち一ぺん家に引っ張ってくるからよ」そんなふうに、女房のおきくに言います。
辰蔵は元は古道具屋の二代目で、暮らし向きに困らないほどの商売をしていましたが、辰蔵の母親の病気を治すため金を使い、店はあれよというまに人手に渡ってしまいます。何もかも無くす直前に、女房のおきくは十両ほどの金を持ち出し、そのことは辰蔵には黙っていました。
ある日辰蔵がその男安之助をつれて来ます。身なりもきちんとしており、挨拶もできる安之助におきくも喜びます。安之助が帰った直後、近所の岩吉という職人が、肩が触れただけのことで、突然黙って男になぐりかかられ、ひどい怪我をするという事件が起きます。おきくはまさか安之助ではと不安になります。
この不安は的中し、安之助はその後恐ろしい正体をあらわにし、おきくたち夫婦を震え上がらせていきます。どんなことが起こるかは、ぜひ本編をお読みください。やっぱり一番怖いのは人間でしょうか。安之助は夫婦の前から姿を消しますが、死んだわけではありません。映画「ハロウィン」のマイケル・マイアーズのごとく消えただけです。後には、「鋭利な刃物で首を裂かれた猫」が捨ててありました。
藤沢周平のサイコパスホラー、ぜひ御堪能くださいね。怖いよー。
過去の後悔を何とかしようとする男の物語2編
「幼い声」表題作「時雨みち」は、いずれも過去にある女に行った自分の仕打ちを後悔した男が駆けずり回る話です。
櫛職人の新助は、幼い頃に一緒に遊んでいた「おきみ」が、男を刺して牢に入っていると聞き、おきみのことが気になります。長屋の幼なじみで一緒に遊び、いつも別れの時に「新ちゃん またね」というおきみの幼い声が今も耳に残っているのです。
おきみが牢を出る日、新助は居残って少しずつ作った櫛をおきみにやろうと、牢獄の前で待ちます。
-これがおきみかい。新助は近づいて来る女を呆然と見つめた。胸も腰もがっしりと厚い女だった。細い眼のあたりに、わずかに昔のおもかげが残っている気はしたが、おきみはまるで初めて出会う女のように見えた。
p173
(中略)
だがおきみは、すぐに笑いをひっこめると、あっさりとじゃこれで、と言った。道端で立ち話をした人と別れるよりもあっけなく、おきみは背を向けた。
せっかく迎えに来たのに、あまりの素っ気なさに、一緒に迎えに来ていた友人は怒るが、新助はおきみに一人で強く生きていくひとりの女の姿を見つけます。そして、新助の耳にあった、あの幼い声が変わります。
おきみはどこかで町角を曲がったらしく、堀ばたの道にはもう姿が見えなかった。人の姿もなく、がらんとした道を、やや赤味を帯びた日差しが照らしている。新ちゃん、またねと言ったおきみの幼く澄んだ声が、だんだん遠くなり、ふっと消えるのを新助は感じた。
P174
とかく男は女に関しては未練たらしいようで、昔に関わった女のことをいつまでも大事に持ち続けている場合がありますね。女性はあっさり過去は忘れるようです。新助はおきみの変化にむしろたくましさを感じている。その強さに鍛え上げたこれまでのおきみの厳しい人生も思いながらという、ちょっと複雑な心情がこの短い話の中でも、きらりと輝きます。
時雨みち
機(はた)屋新右衛門も、ある昔の女のために駆けずり回りますよ。
新右衛門と市助は、ともに若い頃同じ店に奉公した年もそう違わない二人です。しかし、今の境遇はずいぶん違う。新右衛門は、知らない者がいないほどの大店の主人。市助は新右衛門の店からわずかな品を卸してもらって行商をしている男です。
この二人の関係の描写は素晴らしく、成功した者の余裕と、そうでなかった者の卑屈さのようなものが痛いくらいに感じられます。自分は成功した昔の友人と堂々とつきあえるかなあ・・・そんなことまで考えさせられてしまう。読む人によってちとつらい部分もありです。
この市助の言葉から、新右衛門は過去に捨てた女のことを知ります。市助はこの女「おひさ」のことを新右衛門の弱みと思っていたのです。しかし、堂々とした新右衛門の態度に、切り札が使えないカードであることを知り、卑屈に謝る市助。ところが、新右衛門の心にそれから「おひさ」のことが思い出されてならなくなります。
かつて新右衛門は選択を迫られていました。おひさと恋仲であり、子まではらませていました。ところが商売の手腕を見込まれ、機屋への婿の話が出ていたのです。新右衛門はおひさとの仲を清算し、おなかの子も流させます。おひさは別れを了承しますが、「ただ、このまま狂うのかと、新右衛門がおびえるほど泣いた」のでした。この泣き声がこの小説の忘れられぬ叫びとなって響いていきます。
市助からおひさが女郎に身を落としていると聞き、新右衛門はその女郎屋におひさを訪ねます。女郎屋の通された部屋のあまりの貧しさから、「そしらぬふりはできない」と新右衛門は考えます。おひさと再会した新右衛門の驚き、そして二人の会話は、ぜひ本編を読んでください。女の強さ、男の弱さを感じられますよ。
新右衛門は罪滅ぼしにでしょうか、20両を用意していましたが、おひさは受け取りません。
「あわれんでなどもらいたくないね。あたいのほうでお前さんをあわれんでたんだ。芝で知られた店か何か知らないけどさ。大店の婿の口に目がくらんで、冷や汗たらたらであたいをだまして逃げた男がいたっけってね」(中略)
P354~355
「今夜の酒はおごりだよ。二度と顔を見せないでおくれ」
新右衛門は廊下に出ると、うつむいて梯子をおりた。そのとき、出て来た部屋から、おひさの泣き声が聞こえた。しぼるような声だった。
このおひさの二回の泣き声。心に刺さり、耳から離れないような気がしませんか?音のない小説で、ここまで音が響き渡る・・・文芸のすごさだと思います。
次の日再び今度は50両を携えて同じ妓楼に新右衛門は行きますが、すでにおひさはその店をやめていました。
さて大店の主人で有りながら、実は新右衛門は幸せではなかったのです。家族は心がばらばらだったのです。新右衛門は一瞬考えます。
あのとき、おひさと一緒になっていたら、もう少しましな暮らしが出来ただろうか、と新右衛門は思った。だが考えても何の足しにもならない物思いだということはわかっていた。
P356~357
すべてがやりなおしのきかないところに来ていた。そのままで行くところまで行くしかない齢になっていた。
後悔と諦め、きっと誰もが味わう人生のこの「悲哀」は、もっとも藤沢修平らしい部分と感じられます。
藤沢文学らしさを堪能できる短編集「時雨どき」どうですか、読みたくなってきたでしょう。印象深い作品がつまったこの作品、ぜひぜひ読んでみてください。大オススメですぞ。サイコパスホラー怖いぞ!
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