「壬生義士伝」ながやす巧の表現の極み

スポンサーリンク

漫画好きな友人から、どさっと一袋コミックを借りました。それが、「壬生義士伝」(浅田次郎:原作 ながやす巧:漫画)です。

samon
samon

1巻から引きこまれます。一気に4巻まで読了しました。題名と映画化されたことなどは知っていましたが、映画も未鑑賞でした。盛岡を中心とした南部藩を脱藩した吉村貫一郎を中心とした武士たちの物語。新撰組や鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争など、知らなかった実際の出来事の中で、あまりに悲しくも凜々しい武士の本分が、美しい絵で浮き上がります。これは、文句なくオススメです。

物語は、吉村貫一郎が鳥羽伏見の戦いで傷を負いながら、大阪にある故郷の藩の蔵屋敷に助けを求めてやってくるとことから始まります。

しかし、脱藩していた彼は、上司の大野次郎右衛門に「恥を知れ、ここで腹を切れ」と叱咤されます。

ドキュメンタリー的進行

時が流れ、大正4年。北海道出身の記者が、吉村貫一郎のことを知る者に、インタビューしていきます。物語は、複数の人の回想として語られていきます。それは、まるでドキュメンタリー映画のようです。

1人目に語るのは、神保町の角にある居酒屋「角屋」の店主です。記者は、店主に「新撰組」について語ってくれるよう頼みます。そぼ降る雨の中、実は元新撰組の隊士だった店主の語りは、明け方まで続きます。

竹中正助は吉村貫一郎と新撰組に同時に入隊したいわば「同期」です。彼の語りの中では、入隊早々に行われた立ち会い稽古のシーン、永倉新八と吉村の真剣での勝負が白眉です。

ながやす巧の漫画はその線が実に美しく惚れ惚れしますが、もう一つの特徴として背景が完全に真っ白というコマの存在があります。上記の対決シーンでもこれは多用されています。人物に集中できると共に場面の緊迫感がとても増すように感じます。

浦沢直樹氏はながやす氏の描く線について、次のように激賞しています。
「一本一本の描線すべてに執念が宿っている。」
第1巻腰巻きより

非常に繊細でスマートな線に「執念」を感じる浦沢氏の感性もすごいですね。

一番変わったのは人間

「御一新(明治維新)のこのかた西洋の医学ってのがすっかり進歩して人間は長生きになった。その分だけ人生が間延びしちまってよ。一番変わったのは人間だね。ここに飯を食いに来る学生が、あの頃の命を的にして生きていた俺たちと同じ年頃だなんて、まったく信じられねえ」

居酒屋の店主竹中庄助はそう語ります。今の二十歳を出たくらいの若者はまるでガキだと。

さらにさらに寿命が延びている現代。還暦になった私は振り返るにつけ、成熟した大人になれたのかなあと疑問符は出てくるばかり。まだまだガキなんじゃないか?

庄助は続けます。「世の中が良くなるのはけっこうな話だが・・・その分人間は馬鹿になっちまう!」

平和の中でもう何十年も過ごしてきた日本人。もしかしたら何も考えない馬鹿になっている気がしないでもありません。

酒井兵庫にまつわる話

居酒屋店主庄助の語る新撰組の物語の中で、ことさら印象深いのは、次々に死者が出る新撰組の中で、その後始末の仕事をしていた酒井兵庫にまつわるエピソードです。

最古参の隊士であった彼は、日々の死者の後始末に嫌気が差したのか、ある日屯所を脱走します。土方歳三は、新撰組の内情にも詳しかった酒井の脱走を許さず、探索方を立てます。それに選ばれたのが、沖田総司、斎藤一、篠原泰之進、それと吉村貫一郎に店主竹中庄助です。

ここでの、それぞれの人物の心情と行動は、非常に複雑であり、ここで書いているとものすごく長くなりそうなので、本編をぜひ読んで感じていただきたいと思います。特に気難しい斎藤一の人としての感情がほとばしる、祭太鼓を打つシーンが胸に迫ること必至です。

samon
samon

第2巻までの竹中庄助の語りの中に、吉村貫一郎の武士としての本分が、存分に描かれていきます。どれだけ言葉を尽くしても、この漫画に向き合う以上のことはできません。吉村の物語を描きながら、漫画家ながやす巧の凄さも堪能できます。それを、第2巻の腰巻きに記された「井上雄彦」の言葉は伝えてくれます。「己の表現を貫き通してたどり着いた極み。この作品を読みながら僕らは、ながやす巧その人と向き合っている」壬生義士伝第1巻2巻ぜひお読みください。超オススメの作品です。私も胸高鳴らせ5巻に入ります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました