黒沢 清監督作品「地獄の警備員」

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黒沢 清監督作品「地獄の警備員」(AmazonPrimeVideo)を観ました。世界の黒沢のメジャー大作東宝の「スゥイートホーム」の次の作品だが、マイナー製作会社の作品で、監督は自由に作っています。

冒頭、商社に新入社員として就職するヒロイン成島が乗るタクシーのシーンで、ラジオから愛人を殺害した相撲取りのニュースが流れ、その犯人が本作のシリアルキラーのように仄めかされます。

しかし、松重豊分する長身痩躯の地獄の警備員富士丸はどう見ても相撲取りではないですね。相撲取りはもっと太っています。相撲は体重階級制のない差別級競技なので、体重が大きい方が圧倒的に有利だからです。

清潔感漂う成島(久野真紀子)に、タクシー運転手、課長の久留米(大杉漣)、野々村らはセクハラ感たっぷりで、時代を感じます。大杉漣に至っては、「見てるだけでいい」といってズボンを下ろすのですから、もう犯罪の領域です。

samon
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ヒロインの成島は、ズボン事件、資料室での恐怖体験など、とんでもない目に遭うわけですが、淡々としています。過剰な心理表現がまったくありません。これは、上司の兵藤(長谷川初範」もしかりです。この二人は何が起きようと、冷静沈着、淡々と対処していきます。それは一種不気味ですが、これが、世界の黒沢清の演出の独自性といえるかもしれません。

映画評論家の町山智浩氏は、水道橋博士とのトーク動画の中で、「俳優」について語っていました。「俳優とは、人に非ずの存在。すべての自我を空っぽにする。だから人べんに非と書いて『俳』」
「『アホーマンス』以降の松田優作の演技がそれだ」
「阿部寛も、つかこうへいの演劇をとおして、それができるようになった」

また、同じ動画の中で、「黒沢清の演出もそうだ。何の役作りもさせない。」とも言及しています。日本の俳優は、自分の中で脚本の内容を理解し、それを過剰な表情・声であらわそうとするが、それを避けているのが黒沢清演出なのだろうか。

この「地獄の警備員」だけでは、その辺はまだはっきりしません。AmazonPrimeVideoの中に、「スゥイートホーム」の前作「ドレミファ娘の血は騒ぐ」という作品があったので、それを観てみることにします。

この作品は、大学のサークルの実験作品かと思うほど、わけがわかりません。ただし、出演者はほとんど無表情といっていいでしょう。主役の洞口依子はその最たる者です。台詞も棒読み。すでに黒沢清演出が現れているのでしょうか。

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庵野秀明も「シン・ゴジラ」の中で、役者に膨大な台詞を早口で読ませ、役者の役作りを廃したといわれています。役者が、自分を空っぽにし、それを表現とすることで、観る者はその主人公に自分を入り込ませる効果があるのでしょうか?一体どんな意味合いや世界があるのか、まだまだ勉強してみなければなりません。疲れたのでこの辺で終わります。

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