生誕150年ラフマニノフを聴く⑤「音の絵」 ロシア音楽を追究する有森博に期待 ロシアへの望郷の念を最期までもちつづけたラフマニノフの悲しみ

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図書館の開架にあるCDの中で、ラフマニノフの作品は少なめです。しかも多くがピアノ協奏曲。そんななかで見つけたのが、日本のピアニスト有森博の「音の絵」でした。

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結論

ショパンやドビュッシーの練習曲に比べれば少し地味。標題なしもその理由かな。

ロシア音楽を追究する有森博の活動に期待

作曲の源泉であるロシアへの望郷の念を最期まで持ち続けた、晩年のラフマニノフの悲しみを痛感

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音の絵

絵画的練習曲『音の絵』(Études-tableaux)は、セルゲイ・ラフマニノフのピアノ独奏曲集。別々の時期に発表された、作品33と作品39の2巻から成る。「絵画的な小品集」として構想されたが、ラフマニノフは各曲が示唆する情景を公開せず、「私は、自分のイメージをあまりにひけらかすような芸術家を信用しない。誰でも、音楽から連想したものを自由に描き出せばよい[1]」と述べている。

wikiより引用

練習曲ですね。上記のように「標題」がなく、「アレグロ」や「グラーヴェ」などの速度表示がされているのみです。「自由に絵を想像して」というラフマニノフの意図です。そういわれても素人にはちょっと難しいですね。ショパンのように「木枯らし」とか「蝶々」とかつけてもらうとイメージが沸くのですが。

作品33の第7曲は「市場の情景だよ」とラフマニノフはレスピーギに洩らしています。それを知って聴くと眼前に生き生きとした市場の喧噪が広がります。やはり「標題」という言葉の補完の意味合いも大切だと思います。

(作品33と39の)二つの<音の絵>は、スイスの画家ベックリンの絵画をテーマにしているといわれていますが、それが具体的にどの絵のことなのかは、ほとんど明らかにされていません。現在伝えられているところによると、Op.39の第1曲は「波」、第2曲は「海とかもめ」、第6曲は「赤ずきんとオオカミ」、第7曲が「葬送行進曲」、第8曲が「朝」、そして第9曲が「東洋の行進曲」をあらわしたということです。

ライナーノーツより

ショパンはピアノ技術のための練習曲を芸術に高めたといわれます。しかし、主眼は技術を磨くための曲なのでしょう。ドビュッシーの練習曲は各曲に技術のねらいが題名として記されています。「三度のため」とか「四度のため」とかです。第1曲などは「五本の指のための練習曲/チェルニー氏に倣って」で、冒頭チェルニーの練習曲のような無機的な音階で上下が瞬間ありますが、すぐに崩れてドビュッシーの世界に入っていきます。

つまり練習曲の主眼を明確にしながら、ドビュッシー独自の芸術に高めている。ラフマニノフは音で絵を表現するという芸術性をまずテーマとし、副次的に技術の練習となるように考えたのでしょうか。それぞれ個性があっておもしろいですね。ピアニストの側からみた意見も聞いてみたいです。私はピアニストではないので、曲のすばらしさ芸術性にどうしても目が行きますけどね。

そんな目でラフマニノフの本作を聴くと、ショパンのメリハリある曲のすばらしさ、ドビュッシーの独特の革新的な世界に比して、どうしても地味な印象がぬぐえません。ラフマニノフの特徴である茫洋とした感じも地味さを補完しているでしょうか。でもそこが魅力なのかもしれませんね。

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有森 博

岡山県出身。東京芸大卒。ショパンコンクール最優秀演奏賞。チャイコフスキーコンクール入賞。

96年からラフマニノフ作品全曲演奏会を開催。「超人的技巧派ピアニスト」として評価を受ける。

有森さんは、現在も、勉強のためにロシアと日本を往復する「通勤留学」を続けています。有森さんの心をとらえたロシアの魅力、それは貧しいこと不便なことなどものともしない、人々のたくましさだそうです。そして「名声など音楽にはいらない。自分が本当に大切にするものを、じっくりと育てていくことこそが重要なのだ」というナターリャ・スースロワ先生の教えは、西洋の音楽文化の主流を担ってきたドイツやフランスの音楽になじめなかった有森さんとって、大切な道しるべとなりました。なによりも、有森さん自身の「古き良き時代のロシアの音楽にふれた喜びを伝えたい」という思いが、このラフマニノフ・シリーズの出発点でした。

ライナーノーツより

有森さんのホームページにあるディスコグラフィをみると、まさにロシアの作曲家ばかりです。ロシア音楽へのこだわりの強さを感じます。中でもラフマニノフはディスク数も多いようです。カバレフスキーとラフマニノフは全曲録音計画が進行中のようです。

戦争を起こしているロシアは悪者扱いされがちですが、ロシアの音楽芸術の深さや素晴らしさは否定できません。有森さんには今後ともロシア音楽を追究していただき、日本にその成果を紹介して欲しいと願います。

ラフマニノフについて⑤

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『』を作曲した。1915年1月には正教会奉神礼音楽の大作『徹夜禱』を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、ピアノ協奏曲第1番の大がかりな改訂作業を行った。

wikiより引用

チャイコフスキーへの憧れが強い人だったことがわかりますね。私は、アメリカの作家エドガー・アラン・ポーは大好きなので、「鐘」は聴いてみたくなりました。そして、1917年革命の嵐はラフマニノフの運命を大きく変えます。

ロシア革命の勃発で祖国を捨てた時、ラフマニノフはすでに40代。自分の音楽活動の基盤を、ほぼ固め終わっていた時でした。彼はそれをすべて捨てて国外に出たのです。彼に新しい活動の場を与えたのはアメリカでした。しかし、急成長するアメリカの大衆社会が求めていたのは、人々を圧倒するヴィルトーゾ・ピアニストとしてのラフマニノフでした。

そこでは、古いロシアの芸術の継承者としての彼は必要とされなかったのです。ラフマニノフ自身、アメリカの期待に十分すぎるほど応えました。でも皮肉なことにその名声によって、彼の姿はゆがんだ形で伝えられることになったともいえるのです。

そして、アメリカを通してラフマニノフを知った世界の多くの人々は、彼の作曲家としての業績など、ほとんど省みることがなかったのでした。

ライナーノーツより引用

ロシアを出たあとは作曲活動はほとんど無くなります。友人のピアニスト、ニコライ・メトネルになぜ作曲をしないのかと尋ねられると、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」と答えています。作曲にロシアの大地や自然がどれほど影響していたかがわかりますね。

そんな中でも、ピアノ協奏曲4番、交響曲3番、有名なパガニーニの主題による狂詩曲を作曲します。第3交響曲は大好きです。そして、最後の作品「交響的舞曲」をアメリカロングアイランドで作曲。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられたのです。

1943年3月28日、70歳の誕生日を目前にして悪性黒色腫のためビバリーヒルズの自宅で死去した。ラフマニノフ自身はモスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されることを望んでいたが戦争中のことでもあり実現できず、6月1日にニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された

wikiより引用

祖国への望郷の念は最後まで彼の中にあったのですね。ラフマニノフの音楽の源泉が祖国ロシアにあったことがよくわかります。

samon
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以前ラフマニノフの生涯を描いた映画を観たことがあります。渡米後の演奏旅行ばかりの日々に悩み苦しむ姿が印象に残っています。はたせない祖国への思いと満たされない作曲への情熱が、彼の苦しみの背景にあったことを今回のブログを書いていて強く感じました。それでも人々の求めに応じようとして最後まで演奏活動を続けた彼の誠実さにもうたれます。

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