これまでアシュケナージのピアノで聴くことが多かった3番のコンチェルトですが、アルゲリッチのソロの演奏を聴いてその凄さに驚きました。アルゲリッチについても掘ってみましょう。
結論
- アルゲリッチのライブ演奏は必聴です。
- 天才アルゲリッチの音楽に傾ける情熱そして恋多き人生もすてきです。
- とにかくピアノ協奏曲第3番は名曲なり。
ピアノ協奏曲第3番
1909年の夏にタンボフ州イワノフカの別荘で、同年秋に予定していた第1回アメリカ演奏旅行のために作曲された。全曲の完成は同年9月23日のことだった。時間の制約からラフマニノフはこの作品をロシア内で練習することができず、アメリカ合衆国に向かう船の中に音の出ない鍵盤を持ち込んで練習を仕上げたという[1]。同年11月にアメリカで初演された後、1910年にグートヘイリ社により出版され、作品はヨゼフ・ホフマンに献呈された。
wikiより引用
後にラフマニノフはこの曲をカットして演奏するようになった。1939年から翌年にかけて行われた録音でも、カットした版で演奏している。かつては他のピアニストもこれに倣って一部をカットして演奏することが多かった。
音の出ない鍵盤で練習するとは、「赤い」シリーズの水谷豊を思い起こさせますなあ。分かる人少ないかな。とまれ、ラフマニノフ自身カットして演奏したとあるように、この曲ラフマニノフ特有の技術的困難さと茫洋とした感じ故か、発表当初はあまり演奏されなかったようです。献呈されたホフマンさえ、一度も演奏しなかったらしい。
ただ指揮者としてこの曲に向かったマーラーは「傑作だ」と見抜き、時間になっても楽員を帰さずに、完璧に仕上げようと練習を続けたようです。さすがマーラーですね。作曲家としてのマーラーの話題は多いですが、指揮者としてのマーラーの姿を垣間見た感じがします。
その後この曲を「私の曲」とまで言って愛奏したのが、ホロヴィッツでした。このことからラフマニノフとホロヴィッツは親しく交流するようになったようです。ホロヴィッツは何種類かの録音も残しているので、聴くことができますね。
さて、この曲には1楽章のカデンツアが2種類あり、大カデンツアと呼ばれる難しい方を弾いていたことで知られるのがギーゼキングです。ギーゼキングのドビッシーは私は大好きななんです。ギーゼキングの録音も残っているのでこれまた聴いてみたいですね。
ちなみにラフマニノフ自身の演奏も残っているので聴くことができます。いやあ録音って偉大ですな。ショパンやリストの自身の演奏って聴いてみたいと思いませんか?かなわぬ夢ですが。
今回は、20世紀の偉大なピアニストシリーズのマルタ・アルゲリッチの演奏を聴いているときに、リッカルド・シャイー指揮ベルリン放送響とのライブ演奏録音(1982年)で、このラフマニノフの3番に出会ったのです。その細部まで明瞭にきこえるピアノの響き、一切の迷いのない確信をもったような演奏に驚きました。音楽全体が生き生きと新鮮に生まれ変わったかのようでした。
アルゲリッチ
マルタ・アルゲリッチは1941年ブエノスアイレスの中産階級に生まれます。父はスペイン・カタルーニャ地方からの移民を祖先にもち、母はベラルーシからのユダヤ系移民2世です。移民の国アルゼンチンですね。「母をたずねて三千里」のマルコはイタリアからアルゼンチンに向かうのでしたね。
保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された際、やすやすと弾きこなした[8]ことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァ(en:Vincenzo Scaramuzza)にピアノを学び始める。
wikiより引用
天才ですね。たぶん習ったこともないピアノを「やすやすと弾きこなす」なんて。8歳でベートーベンの協奏曲1番を公開の場で演奏。デビュー曲でした。そういえば先日白髪のアルゲリッチが、ブロムシュテットとこの曲を演奏していましたね。90代の指揮者と79歳のピアニストで実に元気のよい演奏を聴かせてくれました。
ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため[9]、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、アルゲリッチの父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し[10]、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた[11]。
同上
13歳の天才少女は、両親の運命も変えてしまうわけですね。ペロン大統領の奥さんはもちろんエバ・ペロン、エビータですね。「Don’t cry for me Argentina」しか知りませんが、このミュージカルも見てみたい聴いてみたい。拡がりますね。
グルダはアルゲリッチに教えているときいくつだったのでしょう。アルゲリッチと11歳しか違わないから、24歳ですね。グルダもまた天才であります。ちょうど、グルダのクラビコードをもちいたライブ演奏を聴いたところでした。レコード2枚組で1枚目を聴いたところ。バッハと自作が演奏されます。
2年間グルダに師事した後、リパッティ夫人やミケランジェリ、アスケナーゼに師事してます。すごい師事歴です。すごい先生達の教えを吸収して、いよいよコンクールに打って出ます。
1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。
同上
大きなコンクールに優勝しても、すぐに売り出さないで勉強を積む姿勢に感動します。この研究熱心さがあの演奏を創るのでしょうか。たしかポリーニも、ショパンコンクール優勝のあとも、ずいぶん勉強を続けたのではなかったかな。自分の音楽の土台をしっかり固めたということでしょう。だからこその今のアルゲリッチやポリーニがあるのですね。
19歳でドイツ・グラモフォンからレコードデビュー。24歳ではショパンコンクール優勝、マズルカ賞も受賞と破竹の進撃が続きます。レコードのジャケットからも分かりますが、魅力的な美女でもありますから、恋の話も多いですね。
デュトワらとの3度の結婚で、それぞれ子供ももうけています。子どもたちは全部彼女が育て、今はそれぞれに演奏家やクリエイターなどで活躍しているようです。母としても立派だったといえます。デュトワとの結婚生活は、彼のチョン・キョンファとの浮気により終演を迎えます。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり、室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
同上
私がアルゲリッチが大好きな理由の一つは、室内楽の演奏に熱心なことにあります。ソロのリサイタルよりも、気のおけない仲間達との合奏の楽しさをアルゲリッチは好んだのでしょう。彼女のフレンズ達との質の高い演奏は、いつも私たちの喜びであり楽しみでありますね。
バーンスタイン同様、アルゲリッチも教育活動にも非常に熱心です。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス・マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
同上
特に「別府アルゲリッチ音楽祭」では毎年のように来日してくれるのは、九州に住む私には本当に嬉しいことですね。コロナで2年ほど来日ができなかったのですが、2023年は来日してくれそうです。5月23日のコンサートでは、あのチョン・キョンファとフランクのソナタを共演するようです。昔の旦那の浮気相手もフレンズにしてしまう器の大きさがすごいと思いませんか?
ラフマニノフについて③
1895年に交響曲第1番を完成させ、ペテルブルグで初演されますが、大失敗に終わります。これは仕組まれた失敗ともいわれ、音楽派閥の対立関係で、意図的に失敗させられたらしいのです。純粋に音楽的価値が認められなかったというのが残念ですね。繊細なラフマニノフは深く傷つきます。
自信喪失と神経衰弱で、この時期ほとんど作曲ができなかったようです。ですが、仕事場のオペラハウスで知り合った歌手のシャリアピンやチェーホフとの親交は、励ましにもなりました。トルストイとも会う機会をもち、彼にベートーベンの「運命」を基にした自作の曲を聞かせたところ、不興をかってしまい、また落ち込むことになってしまいます。繊細だ。
何かアルゲリッチの部分が多くなってしまってすみません。でも、リッカルド・シャイーとの3番の協奏曲の演奏は本当にすばらしいので、ぜひ聞いてみてください。最近アナログ盤も出たようです。この演奏が発表されたときにはすでにCDの時代で、レコードはなかったわけです。5千円以上するので私には手が出ませんが。そういえば、先日リサイクルショップで、アルゲリッチのデビューLPを110円で手に入れたんですよ。リサイクルショップはときどき行ってみるものです。
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