濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」

Movie
スポンサーリンク

濱口竜介監督作品「ドライブ・マイ・カー」(ユナイテッドシネマ長崎4番スクリーン9:00の回)を観ました。

samon
samon

結論から言と、この2時間59分の長尺の作品は、私にとってはあまり感銘を残さないものでした。よどみない進行で、長さはそれほど感じません。チェーホフの台詞と登場人物の心情とがリンクしている脚本の見事さがあるのでしょうが、少し難しく感じました。大きく3つのパートに分かれているとすれば、冒頭のパートは官能的で、詩的で本当に素晴らしいと感じました。

よって、映画の進行とは逆に語っていこうかと思います。ネタバレありです御注意を。

キャスト 家福:西島秀俊 音:霧島かれん 髙槻:岡田将生 みさき:三浦透子

もくじ

1)北海道までのロード
2)「ワーニャ伯父さん」
3)音が死ぬまで

1)北海道までのロード

ワーニャ役の高槻(岡田)が傷害致死事件を起こし、呆然とする家福(西島)は、みさき(三浦)の北海道の故郷まで車を走らせてくれと頼みます。

さあ、ロードムービーの本領発揮かと思いきや、この北海道行は途中で誰とも出会いません。広島を出、淡々と走り続けて、フェリーに乗り、雪の北海道まで二人きりの旅です。

そこにはもう音楽も無くなり、北海道に上陸して雪の中では、車のノイズも消えて無音の状態になります。家福とみさきが浄化される前の無の状態ということでしょうか?難しいです。

ロードムービーの良さは、映し出される風景の美しさがあると思います。クロエ・ジャオの「ノマドランド」の美しさは筆舌に尽くしがたい。

家福たちの車の旅で映し出される日本の風景は、見慣れたものでありあまり美しさを感じません。

ただ、家福とみさきが心を通い合わせていることが、たばこのトーチで表現されます。SAABのルーフウインドウを開け、二人はタバコを屋根の上に並べて掲げます。ほのかなオレンジ色は、何の会話を交わさずとも、互いの信頼を象徴しているようで美しかったですね。

本作では、タバコが大事な道具になっています。タバコを吸わない私には今ひとつピントこないのが残念です。

2)「ワーニャ伯父さん」

舞台演出家で自身役者でもある家福は、妻の音(霧島)を亡くして2年後に、演劇祭でのチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出を依頼されます。

家福の独特の演出法、多国語での演劇が作られていきます。家福はオーディションから関わり、日本人の他に、中国、韓国等の役者が選出されていきます。役者は、台詞を自分の国の言葉でしゃべって演劇を進行させます。さらに、今回は韓国手話の女優も加わります。

多国語であるが故に、役者はチェーホフの書いたテキストをすべて知らなければいけません。そのために幾度もの本読み(脚本の読み合い)が行われます。

本読みの中で、家福は役者に「何の感情も込めないで」と要求します。個々の役作りを廃して、淡々とテキストを体の中に入れていく行為でしょうか?

以前別のブログ記事で、松田優作や阿部寛のことを書きましたが、自分の役作りを廃した、完全な器としての俳優の姿と共通したものがあるのかも知れません。町山智浩氏は、「だから俳優の『俳』は『人』に『非』らずと書く」と言っていたのを思い出しました。

このような演技のメソッドは外国にはないものだとも、町山氏は言っていました。

ところで、このような演出法や、元来「ワーニャ伯父さん」という演劇が、この映画の物語にどのような役割を果たしていくかということが、なかなか難しいと感じました。それを知るためには「ワーニャ伯父さん」についての知識が必要なのでしょうか?なかなかにハードルが上げられるような気がします。

「ワーニャ伯父さん」のあらすじを以下に引用してみます。

主人公のワーニャおじさんは教授のために全てを捧げて田舎の領地で身を粉にして働きました。しかしその教授が実は無能な張りぼてであり、25年にわたる彼の献身は幻想への奉仕に過ぎなかったことが明らかになります。ワーニャおじさんは才能ある人間でした。しかし彼は幻想を信じたが故にその才能を無駄にし、田舎で朽ちていく運命を生きることになります。その反抗と目覚めがこの劇のメインテーマとなります。

日々是読書」より引用

映画の中でも出てきた演劇場面での台詞が次でした。

一生を棒に振っちまったんだ。おれだって、腕もあれば頭もある、男らしい人間なんだ。……もしおれがまともに暮してきたら、ショーペンハウエルにもドストエーフスキイにも、なれたかもしれないんだ。……ちえっ、なにをくだらん!ああ、気がちがいそうだ。
 

新潮社、神西清訳『かもめ・ワーニャ伯父さん』P211-212

自分の人生を嘆く姿は、妻を亡くした家福と重なることがわかります。やはり、この演劇と映画の主人公が重なっていく構造なのです。

映画を観る者に、ここまで要求せんでくれ。とも思ってしまいます。

さらに、演劇のエンディングシーンは、ワーニャを姪のソーニャが慰める場面ですが、韓国手話でソーニャは語ります。「運命がわたしたちにくだす試練を、辛抱強く、じっとこらえていきましょう」

チェーホフの作品は「自己満足」の幸福者たちへの蔑みに満ちている(佐藤清郎『チェーホフ劇の世界』)らしい。「人間が人間らしく生きるのに苦悩は大切な手段」(同上)であり、これから先も続いていく苦悩に絶えて生きていくことが「幻想」を廃した「覚醒」であるとのことです。

この心情はまさに、家福のそれとぴったり重なるようです。だから、家福はその「覚醒」を知って、満足げな顔でワーニャのエンディングを演じたのでしょう。いや演技ですらなかったのかも知れません。

3)音が死ぬまで

この映画は、とても美しい男女の朝の目覚めで始まります。妻の音(霧島かれん)の細く青白い背筋の美しさ。そして、彼女が目覚めに語る夢で見た物語は、詩的で官能的で映像的で、本当に素晴らしいと思います。

音は脚本家であり、その脚本の源泉が、セックスの後の眠りの中で見た夢がもとになっていることが家福の口から知らされます。

ゆえに、音が他の男と寝ることも家福は許したのでしょうか。不倫を目撃しても、家福は黙ってドアを閉めて出ていきます。

家福は後に告白します。音との生活が終わることが怖かった。音から「今夜話したいことがある」と言われたとき、怖くて家に戻ることを遅らせてしまい、そのために音が「くも膜下出血」で倒れたときに助けることができなかった、と自分に罪を背負わせます。

家福と音との複雑な心情や関係が、私などには少し難しいと感じます。

音が物語を紡ぎ出すその基となる、家福と音とのセックスシーンは、映画の中で最も美しいと感じました。この映画の3幕構成で、この最初のパートが私は最も好きです。原作の村上春樹の小説性を一番感じさせるパートとも思いました。

samon
samon

この作品を、ここまで考えてきて、良さもたくさん再発見することができました。ブログにしてよかった。まだまだ上手に整理できない部分も多いですが、ともかくも日本作品初のアカデミー作品賞受賞を祈りたいです。機会あれば、劇場にて御覧になり、さまざまな感想をもたれるといいなと思いました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました