長崎セントラル劇場にて10:40の回で観てきました。10人くらいはいらっしゃったような。朝一のこの劇場では珍しいことです。注目度は高いようです。
結論
事件までの丹念な描写、一度動き始めると止めようもない人間の集団心理の恐怖をまるで自分もその場にいるかのように体験することができます。必見の日本映画。
概要・あらすじ
「A」「A2」「i 新聞記者ドキュメント」など、数々の社会派ドキュメンタリー作品を手がけてきた森達也が自身初の劇映画作品として、関東大震災直後の混乱の中で実際に起こった虐殺事件・福田村事件を題材にメガホンを取ったドラマ。
1923年、澤田智一は教師をしていた日本統治下の京城(現・ソウル)を離れ、妻の静子とともに故郷の千葉県福田村に帰ってくる。澤田は日本軍が朝鮮で犯した虐殺事件の目撃者であったが、静子にもその事実を隠していた。その年の9月1日、関東地方を大地震が襲う。多くの人びとが大混乱となり、流言飛語が飛び交う9月6日、香川から関東へやってきた沼部新助率いる行商団15名は次の地に向かうために利根川の渡し場に向かう。沼部と渡し守の小さな口論に端を発した行き違いにより、興奮した村民の集団心理に火がつき、後に歴史に葬られる大虐殺が起こってしまう。
澤田夫妻役を井浦新、田中麗奈が演じるほか、永山瑛太、東出昌大、柄本明らが顔をそろえる。2023年製作/137分/PG12/日本
ネットより引用
配給:太秦
劇場公開日:2023年9月1日
感想
併合下の朝鮮から戻る澤田夫妻、シベリアで夫を亡くした咲江が同じ列車に乗り合わせるファーストシーン。
「戦争にいい戦争なんてないんですよ」と澤田。「でも名誉の戦死でしょ」と咲江。澤田はそれ以上何も言えなくなる。名誉の戦死と周りから言われそれを信ずる咲江の姿と何も言えなくなる澤田が、すでにこの事件の本質を示しているようです。
井草家も苦しみを抱えています。茂二は妻と自分の父親(柄本明)の間を疑い、息子の出生を勘ぐっています。その苦しみが、事件の回転に拍車をかけることになります。
船頭の倉蔵(東出昌大)は自由に生きるも、咲江を夜這いした「間男」とののしられています。
他にも、世襲で、つまりなんの苦労もなく村長になった田向(豊原 巧補)や澤田と田向の同級生で、在郷軍人会の長谷川(水道橋博士)。以上が福田村の住民の流れ。
他方、後に犠牲者となる讃岐の薬売りの一行、率いるのは沼部(永山 瑛太)。かれらは「えた」という部落出身者の設定。差別される側ですが、したたかに生きている集団です。
さらに、千葉日日新聞の記者恩田(木竜 麻生)とその上司砂田(久しぶりのピエール瀧)の流れ。
「村」「薬売り」「新聞社」という大きく3本の流れが丹念に描かれていきます。福田村だけだと息が詰まりそうな状況を上手に回避していると思います。
倉蔵と咲江、倉蔵と静子、マスと貞次の薄い性愛描写がありますが、森監督曰く、荒井脚本ゆえとのこと。
荒井晴彦は、ピンク映画の時代から人間の性愛について描写してきた脚本家です。私が子供のころはTVで性愛描写が放送されるときがあり、茶の間が気まずい感じになることがあったのですが、最近はすくないですね。自主規制されているものと思われます。詳しくは次の章で述べます。
クライマックス。爆発寸前の群衆とそれを止めようとする人々(村長、倉蔵、澤田)が拮抗する中、それを破ったのは、赤ちゃんを背負った女でした。彼女の農具は薬売りの頭沼部の頭を割ります。これをきっかけにもう、止まらない人間の群集心理が非常に恐怖です。たぶん自分もその中にいたら流されると思います。
悲しいのは、夫を朝鮮人に殺されたと思い込んでいた赤ちゃんを背負った女の夫が、事件の後に無事で彼女の前に現れるシーン。女はこれからどう生きていくのだろうか・・・。想像するだに恐ろしい。
朝鮮飴売りの少女は、もはや殺されると覚悟した時、自分の名前を叫びます。生き残った薬売りの少年は殺された人々には一人一人名前があったんだと、その名前を呼んでいきます。まだ生まれていないおなかの中の赤ちゃんを初めとして。
「同じ漢字の『望』と書いて男の子なら『のぞむ』、女の子なら『のぞみ』。沼部新助・・・・」
人には一人ずつの名前があり、一人一人がかけがえのない命であることが明示されます。一人一人がその望みをかなえようと懸命に生きています。それが、戦争で抗争で偏見でいとも簡単に壊されていく。
必死に本を読み、成長を夢見ていた薬売りの一人は、殺される間際にこう言います。
「おれは何のために生まれてきたんや?」痛切な言葉です。
個の命の大切さと、集団の暴力の非道さへの訴えが、胸につきささるようでした。
日本人を日本人が殺したことが分かった時、くずおれる長谷川(水道橋博士)を妻が必死で慰めようとしますが、この長谷川夫妻の日常が全く描かれてなかったのは残念です。たぶん長谷川はいい家庭人であり、いい村人だったのではないかと推察します。その一面を描くことで、豹変する人間の恐ろしさがより浮き彫りにされたような気がするからです。
荒井晴彦
若松プロダクションの助監督を経て、1977年、日活ロマンポルノ「新宿乱れ街 いくまで待って」で脚本家デビュー。以降、数多くのロマンポルノの名作で脚本を執筆する。「赫い髪の女」(79)、「遠雷」(81)、「Wの悲劇」(84)、「ひとひらの雪」(85)、「大鹿村騒動記」(11)で日本アカデミー賞優秀脚本賞を4度受賞するなど、日本を代表する脚本家として活躍。その他、近年の脚本作品には「ヴァイブレータ」(03)、「やわらかい生活」(05)、「共喰い」(13)、「海を感じる時」(14)、「さよなら歌舞伎町」(15)、「幼な子われらに生まれ」(17)など。「身も心も」(97)で監督デビューを果たし、「この国の空」(15)と「火口のふたり」(19)でも自身の脚本でメガホンをとった。季刊誌「映画芸術」の編集・発行人も務めている。
ネットより引用
「遠雷」の石田えり、「キャバレー日記」の竹井みどり、「ダブルベッド」の大谷直子、近年では「火口のふたり」の瀧内久美などとても魅力的に女性が描写され忘れられません。むろん性愛をベースにした魅力です。
ずっとエロスを描き続けた荒井晴彦は、性愛描写が無くなってきた最近の状況について次のように言っています。
「やってくれる人がほとんどいないし、たとえ俳優本人が乗り気になったとしても、芸能事務所が『CMの仕事が来なくなる』などの理由で断ってくる。ハリウッドではニコール・キッドマンやシャーリーズ・セロンら大物女優が脱いでいるのに」
需要のサイドでも「“草食”なんて言葉が生まれたように、若い男の童貞率も高い。アニメやファンタジー系は観るけれど、リアルな男女の物語は避けられがち。少女漫画原作のキラキラ映画ばかりが溢れたことによって、濡れ場のあるリアルな物語に対する拒否感が強くなっている」と分析します。
そのような状況の中で、人間の根源である性愛(子をもうけ、育てる)を描き続ける荒井の姿勢は、以前所属した若松プロの若松孝二の思想とも重なるようです。
すなわち性愛描写を「単に性的興奮を刺激するものでなく人間性・社会性を追及する監督の表現主張」とするものです。
映画「遠雷」の終末部でのジョニ―大倉の独白などからもそれは感じられます。荒井・若松の過去作品を観てみたくなりました。特に交通事故で亡くなった若松作品に興味を深めました。
久しぶりの邦画封切り作品鑑賞でした。TVドラマの延長や若者のアイドル映画ばかりに感じて残念に思っていた邦画界ですが、よき作品も出てきます。見逃さないようにアンテナをはりたいと思います。
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