小松左京原作、深作欣二監督作品「復活の日」最後の30分。主人公ヨシズミは地震予知学者である。当時は米ソ冷戦の最中。両国は自国が核攻撃を受けた場合自動的に報復措置を行うARSという装置を準備している。もはやだれもいなくなった両国だが、ヨシズミの予測では、首都ワシントンを大地震が襲う。大地震の波動が、核攻撃の波動と同等であり、地震により米国はARSが作動。ソ連の各地に向けて核攻撃が行われる。核攻撃を受けたソ連は同じく、報復措置が自動的に行われる。そのソ連の報復攻撃の1攻撃地が南極になっているのだ。それを阻止するため、米国軍兵士とヨシズミはワシントンに向かう。という大転換。誰もいない大陸間で核の応酬おこなわれるという愚かさ。小松が描きたかったのはこの愚かさであることは明白だ。たった一人生き残ったヨシズミは南を目指す。愚かさを笑いながらも、人間の生きる執念をラストに描いて、それが題名の「復活の日」となるというのはあまりにストレートすぎるだろうか?ジャニス・イアンのテーマ曲が流れ、木村大作の映し出す美しい南極の姿を見ながら映画は幕を閉じる。何か映画なりのわかりやすさにしてある気がするなあ。原作も読みたくなってしまった。
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