フェデリコ・フェリーニ監督作品「8 1/2」(はっか にぶんのいち)午前十時の映画祭を劇場にて鑑賞 リマスターされた極上白黒画像でフェリーニの私小説的名作が蘇る

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samon
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観たい観たいと思いながら今日まで未見だった「8 1/2」が劇場の大画面で観られる。こんな喜びはないでしょう。冒頭からぶっとびの映像に、私自身ぶっとんだ。

プレシネマ

本編が始まる前に、「fellini100」の文字が。フェリーニは1920年生まれですから、一昨年がフェリーニ生誕100年になるのですね。この年は「生誕100年フェリーニ映画祭」が開催されたようです。9本の名作が上映されています。しかも、デジタル4Kリマスター版での上映がなされました。

本作も4Kデジタルリマスターが丁寧になされたむねのことが、画面で説明されました。画像と音声がクリアに蘇ったとのことで、期待は高まります。リマスターを行ったのは、「チネチッタ」というイタリアの撮影スタジオ。担当者なども丁寧に示してありました。自信をもってお送りするという感じでしょうか。楽しみ楽しみ。

冒頭 追い詰められた男 飛翔 でも足が・・・

大渋滞の道路。車は全然動きません。車と車の間は20cmもないような有様です。男の乗った車の中から何やら煙が出てきて、男は車から出ようとしますができません。まわりの車の人々は、まるで静止画のように動きません。表情一つ変えず、男の様子を見ています。

何とか車から脱出し、車の天井に上がります。と、そのまま空に飛び上がって行きます。雲の中を飛翔する男。やっと自由になれたのです。しかし、男の足にはロープが付いていて、下にいる男たちから引っ張られ、海に落下してしまいます。ここまで、男の顔はとうとう映されません。男はフェリーニ自身なのでしょうか。

どうしようもない焦燥感、つかのまの自由、しかし拘束は解かれていなかったというこの冒頭は、これから始まる映画の主人公であるグイドという映画監督であり、フェリーニそのものであったことを、もうはっきり語っていますね。印象的で本当にぶっとんだ映画の始まりでした。この冒頭は、主人公グイドの悪夢なのです。

あらすじ

著名な映画監督のグイド(マルチェロ・マストロヤンニ)はベッドの中で悪夢にうなされていた。診察をする医者は疲労の蓄積と判断し湯治を勧める。しかし湯治場に来ても彼は取り巻き連中から逃れられず、新作のシナリオが頭から離れずにいた。そしてそこへやってきたのが愛人のカルラ(サンドラ・ミーロ)だったが、彼女はまるでリゾート気分だった。妻のルイザ(アヌーク・エーメ)との関係は冷めてはいたが、時にはその存在が必要でもあり、もどかしい間柄に区切りを付けられずにいた。グイドの心を占領しているのは若い女優のクラウディア(クラウディア・カルディナーレ)の存在であったが、あらゆるイメージでグイドの前に登場する彼女も、いつしか空しく姿を消してしまう。彼の周辺人物がありとあらゆる相談や懇願を持ちかけてきてはグイドに取りすがってくるが、それも現実なのか虚構の世界なのかが次第に曖昧になって行く。やがて彼は想像の中で過去の記憶へ辿り着き、次々と古い思い出の中を彷徨い始める。ヒッピー女とのダンスの後、海岸で神父に追いかけられ教会で懲罰を受け嘆く母親。マリア像の前で懺悔をした後、再び海岸のヒッピー女のところへ向かう白日夢。そして再び現実に戻り大きな共同浴場で枢機卿から受ける説諭。そして保養を終えたグイドは元の生活に戻り、慌ただしい取り巻きたちが再び波のように押し寄せ、撮影現場でも何もかもがうまくはかどらず彼は途方に暮れる。やがて妄想の中で自分に携わった女たちが全て登場し、各々が好き勝手放題に彼を罵倒し始め修羅場と化してゆく。そして再び撮影現場に戻ったとき、グイドの眼前にサーカスの楽隊が現れ、大きな天蓋の中から自分に関わった全ての人々が現れ、皆が手を取り合い楽しげなカーニバルが始まる。グイドはメガホンを取りカーニバルの指揮を始めるのだった。

MIHOシネマより引用

女たち

小説家にしろ、映画監督にしろ、クリエイターは自分自身を語りたがるのでしょうか。この映画は、フェリーニの人生を幻想的に描いたものだと感じました。

彼のまわりを過ぎていった、あるいはまとわりついている多くの女たちの、画面一杯の顔は忘れられません。中でも強烈なのは、海辺のグラマラスな乞食女サラギーナ(エドラ・ゲイル)です。相当に太めで、真っ黒な衣装をまとった彼女の踊りには、悪魔的な魅力があります。

男性なら誰しも、少年時代に彼女のような強烈な性的な存在を心に焼き付けているのではないでしょうか。それは得てして、美しく清純なものとは違うものであったりします。サラギーナのルンバは、ニーノ・ロータの音楽とともに、この映画に強力なスパイスになっていると思いました。

惰性で続いている妻のルイザは、ショートカットで黒縁の眼鏡をかけたクールな女性。この役をフランスの女優アヌーク・エーメが演じています。眼鏡をとると、とても美しい人です。冷え切っているのに切り捨てられない、主人公グイドに必要な人物。妻も夫も苦しむ様が描かれ、息苦しいほどです。

愛人のカルラ(サンドラ・ミーロ)は、細い細い眉を描いています。グイドは彼女に少し太いつり上がった眉を描き、「娼婦の表情をしろ」と要求します。それに即座に答えるカルラ。グイドにはこのような女も必要だったのでしょう。男にとって都合のいい女も大変魅力的だと思いませんか。

しかし、グイド(=フェリーニ)にとって一番に必要だったのは、若く美しい幻の女クラウディア(クラウディア・カルディナーレ)でした。しかし、どうしても手に入りません。だから様々な姿で幻のように登場します。そんな憧れの女も、男には必要なのでしょう。

人生は祭、人生はサーカス

新作映画の製作の記者会見で、グイドは絶えかねて机の下に逃げ出し、銃を取り出します。画面が変わり外の風景の中で、銃声が響きます。机の下にカメラが戻って、頭をがっくりと落とすグイド。グイドが自殺したことが察せられます。

フェリーニは73歳で没してますので、これはフェリーニの願望に終わったということでしょうか。本作の後にも多くの名作をフェリーニは残しています。映画監督の苦悩そしてそれから逃れる自殺願望を乗り越えた人生だったともいえます。

さて、映画は不思議な場面で幕を閉じます。ピエロのチンドン屋が演奏して練り歩き、広場にこれまで登場した女たちや男たちが皆真っ白な衣装を着て集まってきます(あのサラギーナも真っ白な服に着替えています)。グイドはメガホンで叫びながら人々に列を作らせ、円を作って手をつながせぐるぐる回るように指示していきます。元気に監督業に戻っています。終いに自分も輪に加わり回り始めます。

こうして、「人生は祭だ。人生はサーカスだ」と楽しげに映画は幕を閉じます。

当初、エンディングはお葬式のように静かに、登場人物が白い衣装で列車に乗り込んでくるというものだったそうです。ところが、予告編映像のために作った、全員集合して回る映像が気に入り、これに差し替えたとのことです。差し替えてなかったら、ずいぶんと映画の印象が変わったことでしょうね。

苦しみ哀しみ満載の人生ですが、とはいえ「人生は祭、人生はサーカス」。うきうきワクワクしながら歩んでいきたい。そんなメッセージを感じたエンディングでした。

samon
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この名作を大画面で美しく観れてよかった!午前十時の映画祭、いいですね。今後は「蜘蛛巣城」や「無法松の一生」で三船敏郎を観たいなあ。皆様も「午前十時の映画祭」出かけてみませんか。ところで、8 1/2は今は「はちと にぶんのいち」といいますね。私が算数でならったときは「はっか にぶんのいち」でした。作品の邦題「はっか にぶんのいち」で変わらずにいてほしい。「何 はっか って」と聞かれたときに、「それはね」と会話が始まりますもの。

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